平成・令和浮世床 世界の床屋から

2020年7月31日 大内 邦彦

 かつて髪を切ってもらうのに好んでいろいろな理髪店や美容院を巡っていた時期があった。特に力を入れていたのが出張先での散髪だった。これまで現地で散髪してもらった都市は、国内は大阪、熊本、海外では上海(中国)、寧波(同)、青島(同)、バンコク(タイ)、ハノイ(ベトナム)、ビエンチャン(ラオス)、パクセー(同)、サンパウロ(ブラジル)、シカゴ(アメリカ)といったところだ。

 海外が多いのは、海外出張では国内のように訪問先のアポがうまく入らず中途半端な空き時間が生じがちであること、そもそも宿泊付きの出張なので現地での滞在時間が長いこと、そして何より当時の自分がまだ若く好奇心旺盛だったことによる。落語の「浮世床」にも見られるように、かつて理髪店や美容院は地域の社交場としての機能も濃厚に備えていたはずだ。海外もきっと同じはず。そして今のその名残があるならば、出張先の理髪店や美容院で現地の人たちと並んで髪を切ってもらうことは、現地の事情を知る上で割と有効な調査手法ではあるまいか。そんな調査研究員としての使命感もあったのだ(マジで)。




写真左:バンコクにて(2014年)、写真右:シカゴにて(2015年)
撮影:筆者


 髪を切ってもらっている最中に何やら美味そうな匂いがするなと思ったら隣の空いている理容椅子に美容師の姐さんが座って食事をしていた(バンコク)、5~6軒の理髪店、美容院が道沿いに軒を連ねていて相互に競争しあって価格が驚くほど安かった(寧波)、軒を連ねている店の中にはド派手なピンクのネオンで飾られ散髪以外のサービスを提供するとしか思えない店が混じっていた(同)、これぞ古き良き時代のアメリカそのものの雰囲気満点だった(シカゴ)など、外国の理髪店、美容院ではさほど高くない出費で本来の目的である散髪だけでなく異文化体験をさせてもらうことができ、有意義な時間を過ごすことができたと思う。現地で散髪してきたよと同僚たちに話すと、よくそんなリスキーなことができるなと呆れられたが、言葉がうまく通じなくてもジェスチャーでこれだけ切ってくれという意思を相手に伝えればまず大丈夫だ。あくまでも私の経験則に過ぎないが。

 ところで海外で髪を切ってもらうのに必要な料金はどのくらいなのか。あいにく自分はこれまで入った店の料金を記録していないので、米国のビジネス誌Business Insiderの記事から引用してみたい。同誌の2017年12月1日号にはスイスの金融機関UBS銀行による2015年における世界主要都市の理髪料金の調査結果が掲載されている。これによると世界で最も理髪料金が高いのはノルウェーのオスロで、男性は1回につき77.72ドル支払っているという。東京は33.18ドルでオスロの半額以下だ。先進国でもパリ(26.31ドル)、ロンドン(24.92ドル)、ベルリン(16.49ドル)、ローマ(17.30ドル)は東京よりも安い。ソウルはさらに安く9.43ドル、ニューデリーは5.29ドル、北京は5.24ドル、ジャカルタは4.5ドルと東京の1/7以下だ(図1)。もちろん料金は安ければ良いというものではないが、中国は料金が安いだけでなく散髪も丁寧で仕上がりも悪くなかったし、リクエストするとやってくれるヘッドマッサージは気持ちよかった。なるほど、安くて手先が器用な労働力が豊富な中国が「世界の工場」としての地位を確立するわけだ、と海外での散髪体験から身をもって納得した。



図 1 主要都市における男性の1回あたりの平均理髪料金(2015年)
出所:Business Insider ” People in Norway pay the most for a haircut — here's how much a trim costs in cities around the world”
( https://www.businessinsider.com/haircut-price-around-the-world-2017-11)より筆者作成
原典:UBS

 海外での散髪体験は面白かった。しかし日本の理髪店や美容院は安心できるし総合的な満足度は高いというのが私の結論だ。

 今回の新型コロナウイルス禍の下、理髪店や美容院は厳しい経営環境の下にある。理髪店や美容院は令和2年4月7日に発表された新型コロナウイルス感染症対策に伴う政府の緊急事態宣言において休業要請の対象外であったとはいえ、不要不急の外出の自粛が強く求められていた中、5月25日の緊急事態宣言の解除までは髪を切ってもらったりセットしてもらったりするために外出することを躊躇っていた人たちは多かったに違いない。「家計調査」をみると令和2年4月の「理美容サービス」への支出額は例年の半額程度にまで落ち込んでいる(図2)。「理美容サービス」の内訳は、温泉・銭湯入浴料、理髪料、パーマネント代、カット代、他の理美容代(エステティックなど)からなり、令和2年4月の理髪料は対前月で15%程度の減少にとどまったが、他の理美容代、パーマネント代、温泉・銭湯入浴料が約4割減、カット代は3割強減と減少率は大きく、外出自粛による理髪店や美容院の経営に対する打撃は大きいことが容易に想像される(図3)。



図 2 理美容サービスへの支出額(2015年1月~2020年5月)
(二人以上の世帯、月額)
出所:総務省「家計調査」より筆者作成



図 3 理美容サービスへの支出額の内訳(2020年1月~5月)
(二人以上の世帯、月額)
出所:総務省「家計調査」より筆者作成

 令和2年6月某日、久しぶりに行きつけの近所の理髪店に行き散髪してもらった。今まで散髪のための外出を自粛していた人たちが多く来店していたのか、自分が訪れた理髪店は普段よりも混んでいてかなり待たされたが、いつものように理髪店で髪を切ってもらえる日常が戻ってきたことが自分には嬉しかった。

 とはいえ感染を防ぐために客も理容師も必要最低限の会話しかできないような雰囲気が漂い、理髪店の店内は静かなものだ。客たちと髪結の亭主との間の馬鹿話を題材にした落語の「浮世床」にように店内で会話が盛り上がる、さすがに今はそんな時代ではないと思うが、かつてのように客も理容師・美容師たちもリラックスしてお互いの会話も弾むような雰囲気が理髪店や美容院に再び訪れることを祈りたい。

著者紹介
大内 邦彦 Kunihiko Ouchi

金型や鋳造などの素形材を中心とした産業調査に長年従事。中小ものづくり企業は日本経済の基盤であり発展の鍵であると確信。大学時代は文学部史学科でイスラム史を専攻し、ワンダーフォーゲル部に所属してマイナーな藪山を好んで登る。人とは少し変わった視点から物事を眺めるのが好きかも。