結婚指輪の鉄鋼材料学

2022年12月20日 古谷 仁志

結婚指輪を購入したのは20年以上も前になります。当時より指が太く、外すのに苦労しましたが、裏側を見ると妻の名前の横にPt950という刻印がありました。この表記はプラチナ(白金。以下、元素記号のPtと表記)の元素記号と最低含有率の質量千分率で品位を表しており¹⁾²⁾、私の結婚指輪は質量で95%以上のPtを含有するようです。

Ptは特に日本では宝飾品として人気がある金属³⁾ですが、実は宝飾品として使用されるPtは全体の2割程度であり、延べ棒など金融投資用商品が同じく1割程度、それらを除くと大半は工業用途です⁴⁾。特に多いのが自動車の排ガス浄化の触媒(一酸化炭素などの有毒ガスを無毒化する装置に、Ptの粒子を付着させる)であり、最近では自動車用の燃料電池(水素自動車、FCV)の炭素電極に混ぜ込む触媒としても注目されています⁵⁾。

鉄鋼材料技術に30年間関わった中で、鋼の成分表にPtを見たことは殆どありませんが、学生の頃、鉄鋼材料の教科書⁶⁾に「Pt」を見た記憶があります。これを頼りに、鉄鋼製品に合金元素としてPtを添加する意義を探ってみたいと思います。

背表紙が剥がれて年季の入った教科書をあらためて開いてみると、Ptはニッケル(以下、元素記号のNiと表記)と同様に、マイナス百数十度の低温状態でも鉄鋼製品の粘り強さ「靭性」(じんせい)を高める元素、学術的に表現すると材料が低温で延性を失い脆くなる「低温脆性」に対する抵抗⁷⁾を高める元素、として紹介されています。その教科書が引用している元の論文⁸⁾を入手して確認したところ、鉄(以下、元素記号のFeと表記)におよそ3%⁹⁾のNiあるいはPtを添加すると低温環境での靭性が改善する、それもかなり劇的に、ただしNiとPtに性能の差はないというデータが示されていました。実はNiやPtを添加すると組織が細かくなり、そのことでも靭性が高くなるのですが、その「微細化」の効果を差し引いた“正味の結果”も示されており、そこではPtがNiよりもさらに高い性能を持っていることがわかります¹⁰⁾。

鉄鋼材料の脆性破壊機構を勉強していた学生の頃は、FeにPtを混ぜる「お金のかかる実験」が行われたことに驚き、科学技術が王侯貴族による趣味あるいはサロン活動¹¹⁾ だった時代の風景、貴族が金に糸目を付けずに実験する様を空想したものです。しかし、前述の論文⁸⁾に書いてある実験は貴族の道楽ではなく、米国の鉄鋼会社と大学で研究開発に従事した高名な研究者によるものです。

さて、私の結婚指輪を、溶鋼の入った炉の中に投入して、プラチナ鋼を作ってみるという空想実験をしてみることにします。私の指輪の重量は6gですので、炉に投入して原子分率3%程度のPt鋼を作ると、重量が約60グラム、体積が7立方センチくらいです。たかだか7立方センチでは、靭性を評価する試験用の「シャルピー試験片」をたった1本しかつくれません¹²⁾。さらに、折角作っても、Ptを3%添加しただけでは、現代社会が求める低温用鋼材として、いささか実力不足のようです。少しだけ専門用語を使ってしまいますが、シャルピー試験における3%Pt鋼の延性-脆性遷移温度(靭性の指標;低温ほど靭性に優れる)は-95℃⁸⁾ですので、この材料で液化天然ガス(沸点-162℃)や液化水素(沸点-253℃)を保存する容器を作ると、容器が破壊してしまう恐れがあり、工業的に使えないのです。

科学技術の進歩のために私の結婚指輪を投げうっても、世界を大きく変えるようなデータを示すことは難しいようです。家庭不和の恐れもありますので、結婚指輪は薬指に戻すことにします。

Ptの含有率をもっと増やせばいいのでしょうか。今度は別の問題が発生します。たとえば10%Pt鋼を1トン製造すると、貴金属としてのPtの価格を根拠にしているとはいえ、10億円を超える合金コストになりそうです。一般的な構造用の鉄鋼製品は1トン数万円~十数万円です。なるほど、前出の教科書⁶⁾ で「工業的にはNiに限られる」と記載されていることも頷けます。

Ptは、地球のごく一部の地域、たとえば南アフリカなどで産出される希少な元素⁴⁾であり、鋼の靭性を高めるものの、現時点ではコスト的に使用し難いことがあらためて確認できました。では、将来はどうでしょうか?「Ptは高価な合金元素である」という前提が未来永劫続くのか、あるいは、何らかの技術革新によってPtを当たり前に使える世界が出現し得るのか、少しだけ調べてみました。その結果、将来性という点で以下の2つに注目しました。

一つが、海底鉱物資源です。海山の斜面の表面部には、コバルトリッチクラスト¹³⁾と呼ばれる、鉄・マンガン主体の酸化物が、厚さ数ミリメートルから十数センチメートルで覆っている箇所があるそうです。ここには、コバルト、Niといったレアメタルに加えて、Ptも含まれているのです¹⁴⁾¹⁵⁾ 。2020年には、日本で採掘試験成功というニュースもありました¹⁶⁾。

もう一つが、宇宙資源です。太陽系のうち、火星と木星の間にある無数の小惑星には、地球の地殻にあまり存在しない物質が多量に含まれている可能性があります。2010年に、小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」から表面物質を持ち帰ったことは大きな話題になりました¹⁷⁾¹⁸⁾。Ptについても、地球のPt鉱山より高い集積度を持つ小惑星がある¹⁹⁾ようですので、現在の地球の埋蔵量に匹敵する資源を人類が獲得する日が来るのかもしれません。

二つの技術とも、直ぐに実用化とはいかないようですが、Ptに限らず、様々な希少元素の枯渇という人類の大問題を解決するための、重要かつ有望な技術のようです。結婚指輪にプラチナを選ぶと、「えー、プラチナ?安モノで済ませたのねー」なんて周りから言われてしまう時代に、そのうち、なるのかもしれませんね。

参考文献

¹⁾ 本郷成人: 貴金属の科学, (2001), p6.

²⁾日本規格協会: 日本産業規格JIS H 6309: 2022.

³⁾日経出版販売: 貴金属のABC 金・銀・プラチナ・パラジウム, 93/94, p40.

⁴⁾エネルギー・金属鉱物資源機構: 鉱物資源マテリアルフロー2021
 https://mric.jogmec.go.jp/news/material_flow2021/

⁵⁾ 轟直人: まてりあ, 60, 7, (2021), p389.

⁶⁾ 幸田成康監訳: レスリー鉄鋼材料学, (1985), p131.

⁷⁾三村宏, 町田進: 基礎材料強度学, (2000), p105.

⁸⁾ W.C.Leslie: Metallurgical Transactions, 3, 1, (1972), p5.

⁹⁾ 原子百分率での数値。以下本稿で用いる百分率「%」はすべて原子百分率を示す。重量百分率との違いをわかりやすく概説した例として以下を挙げる。
 https://kenkou888.com/category21/wt-at.html

¹⁰⁾靭性の指標のひとつであるシャルピー衝撃試験の延性-脆性遷移温度(低温ほど靭性に優れる)において、Ni、Ptを添加しない場合の延性-脆性遷移温度が-34℃であるのに対して、Ni添加、Pt添加の場合はいずれも-95℃。また、そこから組織微細化による靭性改善効果の重畳分を差し引いた結果はNi添加で-78℃、Pt添加で-88℃。元素自体の靭性改善効果は、原子百分率の添加量で比較するとNiよりもPtの方が優れている。なお、ここで言う「元素自体の靭性改善効果」とは、Niにおいては転位易動度の増大効果が明らかにされており(前野ら: 鉄と鋼, 98, 12, (2012), p667.)、Ptについても同様の効果があるのかもしれない。

¹¹⁾ 有本建男: 情報管理, 36, 7, (1993), p580.

¹²⁾靭性評価試験として最も一般的に用いられる2mmVノッチシャルピー試験片(10x10x55mm)を想定した。試験法は日本産業規格JIS Z 2242。

¹³⁾平朝彦ら: 海底資源大国ニッポン, (2012), p97.

¹⁴⁾山崎哲生, Journal of Life Cycle Assessment Japan, 18, 4, (2022), p220.

¹⁵⁾ 杉山香里: ふぇらむ, 12, (2007), p444.

¹⁶⁾石油天然ガス・金属鉱物資源機構:
 https://www.jogmec.go.jp/news/release/news_01_000162.html.

¹⁷⁾ 宇宙科学研究所:
  https://www.isas.jaxa.jp/missions/spacecraft/past/hayabusa.html.

¹⁸⁾T.Nakamura, et al.: Science, 333, 6046, (2011), p1113.

¹⁹⁾ 宮本英昭: 環境資源工学, 68, (2021), p68.

著者紹介
研究主幹
古谷 仁志Hitoshi FURUYA

鉄鋼材料の研究開発に27年間従事した後、2022年4月から現職。博士(工学)。

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2022年12月20日